日本では19世紀半ばまで火縄式前装銃が使われていたが、西欧では火縄銃使用期間は極めて短く、16世紀末ごろから火打石を使い発火する「フリントロック式」銃が一般的になった。また17―18世紀に掛けてはライフルが銃腔に切られるようになり、19世紀初頭には「パーカション式」銃と言う発火方式が生まれた。高島 秋帆が徳丸原で行った演練では輸入したフリントロック銃が使われ、やがて幕府は、全国の藩に銃砲の開発製造、輸入のおかまいなしの令を出す。国防のためだ。西欧では18世紀末の産業革命が武器兵器に大きな影響をあたえ、フランスのミニエ、英国のエンフィールド、米国のスプリングフィールドなど、口径14,66mmの前装ライフル銃で部品、弾薬の互換性が出た。
日本では幕末、各種70万挺もの西欧の銃砲が輸入されたと推定されている。
(記録にあるものだけで48万挺「造兵史」)
日本のフリントロックはほとんどみないが、パーカションロック銃は早い時期から和銃を改造することで使われていたようだ。
金属薬莢を使う銃も輸入されたが、日本では登録証が付かず、違法所持となる。
また後装銃は、戊辰戦争(1886)ごろから使用された。